日本語には、「悪口」が少ないと言われることがあります。敬語が豊富で複雑であるというのと対照的であるのですが、はたしてそれは本当なのでしょうか。このような言説は、調査の難しさもあって、確かな根拠に基づくものとは言えないのです。
たとえば、『浮世風呂』や落語の『野崎詣り』などからすれば、江戸の町には豊富な悪口があったのではないかと思われます。漱石の『坊ちゃん』に出てくる、「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫破りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも言うがいい」は、漱石の創作ではなく、江戸っ子の言語生活の反映なのではないでしょうか。また、各地で行われている「悪口祭」は、五穀の豊穣を祈るものと言われますが、そこにはおおらかな悪口文化が認められるのです。さらに、性向語(人の生まれつきの性格や日ごろの態度、振る舞いなどを評価して表現する語)については、ある地域共同体に500語以上もがあり、その8割はマイナス評価語であるという報告があります。
もしかすると、日本の各地には豊かな「悪口ことば」が存在しているのではないか、使わないようにという「たしなみ」によって隠在しているのではないか。そもそも、各地の方言辞典に記載されているわずかの例を除けば、全国各地にどのような「悪口」があるのか、まったく明らかになってはいないのです。
そこで、恣意的な資料収集ではなく、各地の方言研究者にそれぞれ主要な地点を選定してもらい、その地での罵詈雑言を共通の調査票に基づいて調査してもらって、その結果を県別に排列して分析してみようという意図で本辞典を企画しました。
(中略)現代的な状況で、いわゆる「イジメ」のなかで、陰湿なことばが使われています。ネット上でも同様です。それらは、相手の存在そのものを抹消しようとするもので、方言に見られるものとはまったく異なる性格のものです。それら現代的な陰湿な言葉とは異なる、方言における悪態から、豊かな日本の言語文化を感じ取り、県民性をはじめとする日本語の地域的多様性を味わう旅をしていただきたいと思います。罵詈雑言が栄えている地域とそうでない地域の対立も確認できるでしょう。
(はじめに より抜粋)
*本書がテーマとした「罵詈雑言」という性質上、差別・偏見を含んだ表現も掲載されていますが、日本の言語文化の一面を知る資料として掲載しています。
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